会場:東京女子大学9号館
日時:2025年11月30日(日)
大会参加費:会員無料、非会員500円(ただし大学学部生は無料です。)
10:00-10:45
レヴィナスにおける「存在論的言語」について
山本直子(慶應義塾大学)
司会:小手川正二郎(國學院大学)
10:45-11:30
病いとともにいるアンリ・マティスが表現する感動
松本誠舟(企業勤務)、細野知子(日本赤十字看護大学)、野々村伊純(上智大学)
司会:家髙洋(東北医科薬科大学)
11:30-12:15
E・レヴィナスの芸術論における脱人間中心主義――同質性をめぐって
古怒田望人(工学院大学)
司会:小手川正二郎(國學院大学)
10:00-10:45
マックス・シェーラーにおける自他の実在性と人格的価値の把握
渡辺朱音(筑波大学)
司会:横山陸(中央大学)
10:45-11:30
ハンナ・アーレントにおける複数性の「世界」――ユクスキュルの環世界論を補助線として
杉谷啓介(一橋大学)
司会:木村史人(立正大学)
11:30-12:15
抑圧への抵抗の基盤としての知的な自己信頼
大橋一平(神戸大学)
司会:佐藤靜(大阪大学)
12:15-13:15 昼休み・委員会(9号館2階9202教室、委員のみ)
13:15-13:45 総会(9号館1階9103教室)
13:50-14:35
障害のある教員が指導することで子どもたちは何を学んでいるのか
中田崇彦(神戸大学)
司会:屋良朝彦(長野県立看護大学)
14:35-15:20
デジタルツイン技術の医療応用は自己認識をどう変え得るか
伊藤紗也佳(大阪大学)
司会:小田切祐詞(神奈川工科大学)
13:50-14:35
原爆被爆者に見る「排除社会」の思想と自己形成
徳久美生子(武蔵大学)
司会:高艸賢(千葉大学)
15:30-18:00 シンポジウム
「学びを考え直す」 (9号館1階9103教室)
提題者:大塚類(東京大学)
西平直(上智大学)
楠見友輔(信州大学)
司会:家髙洋(東北医科薬科大学)
細野知子(日本赤十字看護大学)
大会終了後 懇親会
※詳細は本ページの末尾をご覧ください。
懇親会費: 一般5000円、非常勤・学生3000円
第42回大会(2025年度) シンポジウム企画趣旨・各報告概要
【シンポジウム「学びを考え直す」企画趣旨】
現在、「学修者本位の教育」という言葉に表れているように、様々な教育の現場では「学び」が中心に据えられていると言えるだろう。「探求学習」や「アクティブ・ラーニング」、「主体的な学び」のみならず、学修者が生涯学び続けることも強調されている(中教審、2018)。
さらに、社会における「学び」も様々に論じられている。(「正統的周辺参加」等の)コミュニティにおける「学び」や、(「インターローカリティ」等の)コミュニティのあいだでの「学び」も着目されるようになってきた。
このような「学び」に関しては、「学習」として心理学や社会心理学、認知科学で研究されていることが多い。また、1990年代以降、人間科学と社会科学、教育学などの多様な分野を総合しようとしている「学習科学(Learning Sciences)」も発展しつつある(Sawyer, R. K. (Ed.). 2014. The Cambridge Handbook of the Learning Sciences. Second Edition. New York: Cambridge University Press)。
以上のように「学び」について様々に論じられているなかで、本シンポジウム「学びを考え直す」では、「学び」についてのいわば自明な事柄等を問い返し、再考することを目的とする。
たとえば、「学び」について、「学びとは何か」、「どのように学んでいるのか」、「何を学んでいるのか」ということだけでなく、「誰が学んでいるのか」、「いつ学ぶのか」、「どこで学ぶのか」、「なぜ学んでいるのか(なぜ学ばなければならないのか)」、「なぜ学ばないのか(なぜ学ぶ必要がないのか)」、「なぜ学べないのか」、「学びから何が生まれるのか」等も問われうるであろう。
また、「学び」を考え直すことにおいて、(「学び」と関連している)基礎的な概念(「理解」、「知識」、「主体」等)を具体的に再検討したり、(学びを取り巻く)様々な背景について新たな機能や意味を見出すこともありうる。
本シンポジウムでは、「学び」に関して(現象学や社会科学に限らず)やや広い観点から考え直すために、大塚類氏(東京大学)、西平直氏(上智大学グリーフケア研究所)、楠見友輔氏(信州大学)にご登壇いただく。
大塚類氏は、被虐待、不登校、発達障がい、慢性疾患といったさまざまな〈生きづらさ〉を抱えている幼児から高齢者を対象とした、フィールド調査やインタビュー調査を行ってこられ、『施設で暮らす子どもたちの成長』(東京大学出版会)や『あたりまえを疑え!: 臨床教育学入門』(共著、新曜社)等を上梓されている。今回は、公立の小学校における学級崩壊についての長年のフィールドワークに基づき、学級崩壊から逆説的に照らし出される「安心できる学びを支える基盤」を考察していただく。
西平直氏は、『稽古の思想』(春秋社)や『無心のダイナミズム』(岩波書店)の著者であり、今回は、稽古における「守破離」の知恵についての話題を提供していただく。「型」を守り、「型」を破り、「型」から離れるという「守破離」は、「型」から完全に離れることはなく、いつでも「型」に戻ることができ、「自在」である。このような「守破離」の知恵は、現在の様々な「学び」や「学び」の思想を考え直す機会になるだろう。
楠見友輔氏は、知的障害特別支援学校のフィールド調査等を長年行ってこられたが、昨年(2024年)、『アンラーニング質的研究』(新曜社)を上梓された。質的研究を「学びほぐす」ことから質的研究を開こうとする楠見氏は、「何かが減ることも学習である」と主張する(同書、10頁)。今回、楠見氏は、「獲得する」「深まる」などの量的・質的増加のイメージで語られてきた「学び」についての従来のメタファーを問い直し、さらに、ドゥルーズとガタリの「生成変化」の概念に基づいて、「学び」の再考を試みる。
各々の領域で「学び」と通じる主題について独自に考えてこられた三名の登壇者の話題提供と参加者とのディスカッションを通じて、「学び」について根底から考え直してみたい。
企画:家髙洋(東北医科薬科大学)
榊原哲也(東京女子大学)
細野知子(日本赤十字看護大学)
【シンポジウム提題趣旨】
学べない子どもたち—―学級崩壊から「学び」の基盤を問う
大塚類 (東京大学)
教室では学び(学習)が不断に営まれていると考えられてきた。しかし近年、学校現場では、子どもたちが「学ばない/学べない」状況が切実な問題となっている。発表者は12年間にわたり公立小学校を研究フィールドとし、そのほとんどの期間で学級崩壊への支援に携わってきた。学級崩壊において子どもたちは、様々な位相で「学べない」状況におかれる。他方で、その状況が身をもって共有され、彼ら自身によって再生産されていく。すなわち、学級崩壊が続くことで、子どもたち自身が混乱や不参加を当たり前と感じるようになり、「学べない状況を学ぶ」というパラドクスが生じる。本発表では、環境からの触発と子ども同士の自己触発の交錯が生み出す教室の雰囲気やリズムといった観点から、崩壊する教室の内実を描き出す。学級崩壊は、安心できる学びを支える基盤を逆説的に照らし出す経験である。学級崩壊から「学び」とその基盤を再考したい。
守破離の知恵――日本の稽古の思想から
西平直(上智大学グリーフケア研究所)
稽古の思想は「型」を説く。「型なし」は弱い。「型」は必要である。しかし「型」にこだわり過ぎると、型に縛られる。そこで「型から離れる」。一度、型に入るが、そこから出てゆく。完全に離れるのではない。いつでも型に戻ることができる。自在である。
「守破離」はそうした「自在」を目指した知恵である。型を守り、型を破り、型から離れる。最初は原理原則を学ぶのだが、時が来たら、それを破って出てゆく。そして自分なりの「自在」を探り当ててゆく。
最初から「自在」を求めると失敗する。逆説的だが、自由なパフォーマンスは自由な環境からは生まれない。一度「型」に入り、その後、そこから出る。
「型」を忘れるのではない。名人は「型を忘れたかのように」自在に振舞う。そう語られるのだが、名人のからだには「型」がしっかり根付いている。足腰がしっかり安定して初めて上半身の力が抜けるのにも似て、土台の型がしっかり安定して初めて動きがしなやかになる。ある種の「逆説」、あるいは、何度も「反転する動き」である。
学びの所有メタファーを問い直す――「減ること」と生成変化の中の学び
楠見友輔(信州大学)
学びは、何かが「増えること」と同じだろうか。伝統的な学習観では、学びは「獲得する」「深まる」などの量的・質的増加のイメージで語られてきた。このような所有メタファーに基づく理解では、「減ること」は見過ごされるか否定的な変化と見なされる。しかし、知識や思考枠組みを手放した時、世界が一気に広がる経験が生まれるように、「減ること」が学びの契機となることもある。もし「減ること」も学びの一部と捉えるならば、私たちは近代的な学習観を問い直す必要がある。ドゥルーズとガタリは、存在を固定的で孤立した主観ではなく「生成変化」としてとらえる視座を開いた。生成変化は、理想の状態に近づく「発達」や「成長」とは異なり、マイナー性へと差異化していく動きである。この概念を手がかりにすると、学びを存在の関係性を通して揺れ動く多様な変化の中に見出すことができる。本発表では、「生成変化」の視点から、学びの再考を試みる。
【一般報告】
1 レヴィナスにおける「存在論的言語」について
山本直子(慶應義塾大学)
『全体性と無限』のドイツ語版刊行時(1987)に付した序文等で、レヴィナスはその内容を凝縮して紹介し、「存在論的言語」についても書いている。この言語は「心理学的な経験論」にならないよう用いたが、以降は使用しないとある。そのため、これを問題ある言語とする推測が生じた。一方で彼は、『全体性と無限』の内容を「存在しようとする努力を問いただす考察」と書いた。それならば存在の記述が必要で、これには「存在論的言語」が有効である。しかし『全体性と無限』で初めて提示され、以降レヴィナスの努力が傾注される問いただしには不足であろう。本発表はこの結論を、先行研究を参照、吟味しながら証左する。
2 病いとともにいるアンリ・マティスが表現する感動
松本誠舟(企業勤務)、細野知子(日本赤十字看護大学)、野々村伊純(上智大学)
アンリ・マティス(1869-1954)は、自分の感動を表現することを生涯追求したフランスの画家である。1941年初頭、彼は腸の疾患により大きな手術を受け、術後には深刻な合併症にも見舞われた。やがて病いから立ち上がると、彼は「第二の人生を生きている気がする」という言葉を残している。身のまわりにある花や葉が美しく見えると語る病後の彼は、手術と同年の夏に《マグノリアのある静物》(1941)の制作を開始し、完成させた。病いを患った高齢のマティスがこの絵に描こうとした感動とは何か。本発表では、美術史、看護学、現象学の観点から作品と発言を検討し、表現しようとした感動を身体性に根差した世界との関係から明らかにする。
3 E・レヴィナスの芸術論における脱人間中心主義――同質性をめぐって
古怒田望人(工学院大学)
これまでE・レヴィナスの哲学に対して、D・デリダなどによって人間中心主義との批判が向けられてきた。本発表の目的は、レヴィナスの芸術論に着目することで、彼の哲学の内に潜在する脱人間中心主義を明らかにすることにある。そして、このレヴィナス哲学における脱人間中心主義をあらわにするために、本発表が焦点をあてたい論点は「同質性」の観点である。彼の初期絵画論や後期芸術論の読解を通じて、本発表は人間と非人間とが混ざり合うことで、その境界が曖昧になる現象を浮き彫りにする。
4 マックス・シェーラーにおける自他の実在性と人格的価値の把握
渡辺朱音(筑波大学)
本発表の目的は、シェーラーにおける自他の実在性の真正な把握と自他の人格的価値の把握との関係を明らかにすることである。シェーラーは、主著『同情の本質と諸形式』で、自らに与えられた相対的な環境世界を絶対的な世界そのものであると見做す、自己中心主義からの脱却のためには、自他が等しく生きた人間として実在していることの共同感情を介した把握が必要であると論じている。本発表では、共同感情によって把握された自他の等しい実在性には自他の人格的価値の把握が含まれていることを示すとともに、「私と彼が同様に実在していること」と「私と彼が等しく人格的価値を有していること」というふたつの別様の把握がいかにしてつながりうるかを明らかにする。
5 ハンナ・アーレントにおける複数性の「世界」――ユクスキュルの環世界論を補助線として
杉谷啓介(一橋大学)
本報告は、ハンナ・アーレントの現象学批判を再検討し、ユクスキュルの環世界論を手がかりにして,晩年の『精神の生活』における「現われの世界」の思想を現象学へと位置付け直すことを目的とする。ユクスキュルは生物の主体的な世界を描き出したものの、『国家生物学』においてその理論を排他的な国家論へと接続してしまった。一方でアーレントは、私的領域と公的領域(=世界)を峻別することで身体を政治から排除したと批判されてきたものの、『精神の生活』においては非生物までをも含む身体的現象の次元を「現われの世界」として捉え直した。本報告では、環世界論の限界を手掛かりに、晩年のアーレントの「現われの世界」論を複数性の現象学として位置づけ再構成していく。
6 抑圧への抵抗の基盤としての知的な自己信頼
大橋一平(神戸大学)
認識的不正義に関する研究において、抑圧的状況下でなされる認識的不正義は知識主体の自己信頼を毀損するため、その自己信頼を回復することが認識的正義のためには重要であるとしばしば指摘されている。しかし、この論点は重要であるにもかかわらず、十分に追求されているとはいえない。認識的不正義が毀損する知的な自己信頼とはそもそも何なのか。なぜ自己信頼は回復されるべきなのか。
本発表では、まず知的な自己信頼に関するこれまでの研究が、知識主体としての自己を単に「あてにすること」と「信頼すること」を区別してこなかった点を指摘し、両者の区別を論じているDormandy(2024)の議論を紹介する。その上で、本発表では自己を信頼することを「誠実に真理を探究する知識主体として自己を認めること」として捉えることを提案する。最終的に、抑圧的状況下における認識的責任ないし抵抗のためには、上記のような仕方で捉えられた知的な自己への信頼がその基盤として必要であることを論じる。
7 障害のある教員が指導することで子どもたちは何を学んでいるのか
中田崇彦(神戸大学)
報告者は四肢麻痺の障害があり,電動車いすを使用する小学校教員で、今年度5年生の普通学級を担当している。本報告では、障害の有無に関わらず「ともに学ぶ」教育の実践を背景に、教室における障害のある教師と子どもたちの関わりを、メルロ=ポンティの身体論の枠組みから分析した。身体を単なる物理的存在ではなく「生きられた身体」として捉え、経験や知識の形成過程を重視するこの理論を用い、日常の子どもの発言や行動を記録・検討した。その結果、障害のある教師の身体性が子どもたちとの豊かな相互作用を生み出し、子どもたちが多様な身体的経験を通じて他者理解や価値観の拡大などの学びを深めていることが明らかとなった。
8 デジタルツイン技術の医療応用は自己認識をどう変え得るか
伊藤紗也佳(大阪大学)
今世界各地において、現実世界から集めた個人のデータを基に、デジタル空間上に“双子(ツイン)”を構築し、様々な医療シミュレーションを行うバイオデジタルツイン技術の研究開発が進められている。こうした技術は、個人の健康管理や予防医療に革新をもたらすと期待される一方で、自己認識の在り方に新たな課題を投げかけている。2024年に開催されたバイオデジタルツイン技術に関する市民向けのワークショップでは、「自分というものが分からなくなる」というような懸念が示され、ヘーゲルやマルクスが指摘した通り、自己が外部の視点から過度に対象化されることにより、本来の自己とのつながりが失われる可能性が浮き彫りになった。本報告では、ワークショップにおけるバイオデジタルツイン技術に対する哲学的な問いを整理するとともに、既存文献をもとに有効な対処法についても議論を行う。
9 原爆被爆者に見る「排除社会」の思想と自己形成
徳久美生子(武蔵大学)
本報告では、生活史調査の結果をもとに、戦前の軍国主義に基づいた「排除社会」で自己形成の途上にあった当時10代の原爆被爆者たちが――敗戦後の日常生活の中で敗戦前の「排除社会」の思想を(完全には)脱しきれないまま――どのように平和を希求する自己を創り直したのかを明らかにする。
大会会場について
会場:東京女子大学 〒167-8585 東京都杉並区善福寺2-6-1
https://www.twcu.ac.jp/main/access/index.html
一般報告A会場・シンポジウム・総会……9号館1階9103教室
一般報告B……9号館1階9102教室
会員控室……9号館1階9101教室
委員会室……9号館2階9202教室
※大会当日は学内の食堂・売店は閉店しています。近隣の食堂やコンビニの数も少ないので、ご昼食はご持参することをおすすめいたします。
大会終了後、西荻窪駅近くの飲食店で懇親会を行います。
懇親会費は以下を予定しています:5000円(一般)、3000円(非常勤・学生)
参加人数を事前に把握する必要がございますので、参加をご希望の方は、11月20日までに以下のURLからお申込みください。
https://docs.google.com/forms/d/1-W_LDh6SCoPdFNmep7oawH6lk5DTFgb6eAdyivL_Qvg/preview