日本現象学・社会科学会 第39回大会プログラム

会場:Zoomオンライン会場

大会参加費:会員無料、非会員500円(ただし大学学部生は無料です。)
【非会員の方へ】 非会員の方は事前に参加のお申し込み(500円の参加費の支払いを含む、ただし学部生は無料)が必要です。申し込みにはPeatixというサービスを利用します。(詳細は近日中にこのページにてお知らせします)。

【2022年12月11日(日)】(会場:Zoomオンライン会場)

10:30 開場

10:45~12:15 一般報告 (→企画趣旨・概要

 

10:45-11:30 (報告1・2) ※同時並行のパラレルセッション方式で開催します。各室への移動方法は当日ご案内します。

ルーム1

ルーム2

司会:家高洋(東北医科薬科大学)

司会:池田喬(明治大学)

後期レヴィナスの倫理におけるクィアな存在への喪とその生存の可能性:
バトラーのメランコリー論を介して
無知の習慣と認識的悪徳:
フェミニスト認識論と人種の現象学の視点から

古怒田望人(大阪大学人間科学研究科)

大橋一平(上智大学文学研究科)

 

11:30-1215 (報告34) 

ルーム1(報告辞退)

ルーム2

司会:加國尚志(立命館大学)

司会:高艸賢(日本学術振興会)

現代社会における生きづらさと気功実践

「ヘヴン」の向こう側へ:「世界の内に生きること」をめぐる文学的応答

柴田登紀子(神戸大学大学院) 

髙橋賢次(法政大学)

 

12:30~13:30 委員会(※委員のみ)

13:40   総会開場

13:45~14:15 総会(※会員のみ)

14:30-15:15 一般報告・午後の部(報告5・6)      

ルーム1

ルーム2

司会:榊原哲也(東京女子大学)

司会:徳久美生子(武蔵大学)


居ることあるいは居場所の自由のために

同性愛者のカミングアウト研究への現象学的社会学理論の援用可能性

小田切建太郎(立命館大学)

大坪真利子(早稲田大学)

 


15:30~18:00  シンポジウム「他者との出会い、他者の現れ」 (→企画趣旨・概要    
提題者: 高橋賢次(法政大学)   
澤田唯人(慶應義塾大学)
田中雅美(関西医科大学)
コメンテーター:吉永和加(名古屋市立大学)

司会:小田切祐詞(神奈川工科大学)・鈴木智之(法政大学)

 

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企画趣旨・概要

【一般報告】

1 後期レヴィナスの倫理におけるクィアな存在への喪とその生存の可能性:バトラーのメランコリー論を介して

 古怒田 望人(大阪大学人間科学研究科

 本発表の目的は、『全体と無限』(1961)以後のE・レヴィナスの後期倫理が含意する「喪」の観点を、哲学的思弁に留めず、具体的な社会、政治的状況に位置付け直すことにある。そのためにこの倫理を、社会の規範的なジェンダー/セクシュアリティから逸脱するジェンダー/セクシュアリティを引き受けるクィアな(queer)存在への喪とその生存の可能性の記述として読解する。具体的には、『権力の心的な生』(1997)におけるJ・バトラーによるG・フロイトのメランコリー論読解と尾崎日菜子の「エイリアンの着ぐるみ」(2019)の語りを主に参照することで、後期レヴィナスの倫理が、異性愛規範的、シスジェンダー中心主義的な社会において「社会的な死」に直面するクィアな存在を哀悼し、その生存可能性を含意する理論であることを示す。

2 無知の習慣と認識的悪徳:フェミニスト認識論と人種の現象学の視点から

大橋 一平(上智大学文学研究科)

 伝統的な認識論において無知という問題は単なる真なる知識の欠如であると思われてきたが、無知は特定の社会的構造にもとづいた個人のあえて知ろうとしないnot-knowing積極的な認識実践であるということをフェミニスト認識論における無知の認識論は問題にしてきた。本発表は無知の認識論のなかでもあまり論じられてこなかった「無知の習慣」という問題とそこにおける行為者性に焦点をあてることで、責任の根拠となる無知の主体性を明らかにし、認識的悪徳の観点からその責任を問題化することである。そのために近年現象学の一分野として注目をあびつつある人種の現象学における人種差別的習慣の分析を議論の足がかりとすることで、無意識のバイアスによる説明とは異なる、前反省的に意識化されている習慣的無知の次元を示す。

3 現代社会における生きづらさと気功実践

柴田 登紀子(神戸大学大学院)

 私たちは、現代社会における生きづらさをどのように感じられるのか。例えば緊張が高まったとき、物事に向かう姿勢が固くなりすぎたり、人間関係がスムーズにいかなくなったりすることがある。また社会の中で漠然とした不安を感じ、主体としての自分を見失うこともある。規律社会における身体性は、文化や社会的要素が身体化されることであるが、個人の成長や自己実現には身体的緊張感からの解放、身体的変容が必要である。気功実践は、その解放および「自己の変容」を促す一つの手法と考える。本発表では、気功実践を続けている人々のインタビューをもとに、現代社会での生きづらさに焦点を当て、その生きられた経験をもとに気功による変容を現象学的に考察する。

4 「ヘヴン」の向こう側へ:「世界の内に生きること」をめぐる文学的応答

髙橋 賢次(法政大学)

 川上未映子の小説『ヘヴン』(2009)は、斜視である「僕」を主人公として、中学校におけるいじめを描いた作品である。作品世界がもつ「1991年」という日付と、F.ニーチェの道徳批判をモチーフに善悪の根源を問うた本作の主題は、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに象徴される、相対主義が瀰漫した社会のリアリティを色濃く反映している。こうした社会的文脈をふまえて、本報告では、「奥行き」をめぐる現象学的知見を手がかりに、作中における「僕」の選択を相対主義的なリアリティに対する「文学的応答」として読み解いていく。小説の最後に「僕」の目に映った「向こう側のある世界」は、「世界の内に生きること」の視角的な表現であり、その発見を描いた本作は,相対主義的なリアリティがもたらす閉塞的な世界観に対し、「偶有性に開かれた生きかた」を示唆することで、「文学的に」応答したものとして位置づけられる。

5 居ることあるいは居場所の自由のために

小田切 建太郎(立命館大学)

  本発表は、いわゆる居場所が社会的包摂・排除ための一個の歯車に過ぎなくなりつつあるという先行研究の指摘を受け、居ることの置かれた社会的状況を批判的に解明するとともに、居ることの本来的ないし積極的な意味を、居ること・居場所の狭められた自由ではなく、解放的な自由の広がりとして探ることを目的とする。そのために、ひきこもり経験者の居づらさのついての声と、その社会的・歴史的背景・文脈を参照する必要があると考える。発表では、その経験者の声を出発点とし、社会学の知見を借りて1960年代まで遡るとともに、デリダのカフカ論なども参照しつつ、居づらさや居場所の意味をその社会的・歴史的文脈とともに解明する予定である。

6 同性愛者のカミングアウト研究への現象学的社会学理論の援用可能性

大坪 真利子(早稲田大学)

  本報告の目的は、現代日本の同性愛者のカミングアウト研究における現象学的社会学の援用可能性を提示することにある。社会学における同性愛者のカミングアウト研究は伝統的に、当事者が特定の他者や状況においてカミングアウトという行為ができないことの抑圧や、その行為可能性の格差に関心をよせてきた。しかしこうした行為の(不)可能性に着目する議論は、そもそも同性愛者がその生において、カミングアウトをめぐってなんらかの態度決定を迫られるという、マジョリティとマイノリティの根源的非対称性を適切に扱うことができない。そこで本報告は、シュッツの現象学的社会学理論の知見を援用し、現代の同性愛者のカミングアウトをめぐる問題経験をより緻密に把捉するための理論的視座を検討していく。

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【シンポジウム】 「他者との出会い、他者の現れ」                      

司会:小田切祐詞(神奈川工科大学)・鈴木智之(法政大学)
提題者:高橋賢次(法政大学)澤田唯人(慶應義塾大学)田中雅美(関西医科大学)
コメンテーター:吉永和加(名古屋市立大学)

 かつてA. シュッツは、E. フッサール『イデーンⅡ』を検討した論考の中で二つの社会性を区別した。一つはコミュニケーションによって構成される社会性であり、もう一つはコミュニケーションそれ自体が前提としている社会性である。ここで言われるコミュニケーションとは基本的に言語的相互作用――シュッツ自身の言葉を用いれば「概念的な言葉で意味の伝達をするコミュニケーション」――として理解できるものだが、後者の社会性をシュッツがとりわけその音楽論の中で「コミュニケーション以前的な社会関係」と呼び、それを「相互に波長を合わせる関係」と定式化したことはよく知られている。
 「われわれ」経験を基礎とするこの種の関係から出発する研究が、どちらかと言うと自他関係が安定的に成立している場面からその基礎を解き明かそうとする傾向があったのに対し、近年看護や医療ケアの現場を中心に展開している臨床現象学は、それとは異なる視角から、コミュニケーションを基づける基底的関係にアプローチしているように見える。ここで念頭に置かれているのは、たとえば、メルロ=ポンティの身体論を手がかりにしながら、医学的には他者と関係することが不可能と定義される植物状態患者と看護師との微細なやり取りを記述した西村ユミ氏の『語りかける身体――看護ケアの現象学』(ゆみる出版、2001年)や、目が合わない、あるいは呼んでも気づかないような自閉度の強い子どもを事例にしながら、対人関係の基底的次元に「視線触発」の存在を見出した村上靖彦氏の『自閉症の現象学』(勁草書房、2008年)などである。
 これらの研究に共通する視角として、おそらく次の二点を指摘することができる。一つは、自他関係の成立がむしろ不確かな場面からその基層を問い直すという視角。もう一つは、一つ目の視角と相関するものであるが、「物理的に近接しているからといってその存在がいつも『他者』として現れ、その存在と有意味な関係を取り結ぶことができるわけではない」、あるいは、「自他の基底的関係の成立には、物理的次元に還元されない意味を帯びた『他者』との出会いが必要である」という視角である。
 後者の「他者の現れ」や「他者との出会い」という論点は、ケアというフィールドでしか意味を持たないというわけではおそらくない。「ロボットは他者になりうるか」という問いに現象学的な視点からアプローチした小嶋秀樹氏・長滝祥司氏の「ロボットが/に心を感じるとき――現象学とロボティクス」(ナカニシヤ出版、2004年、『現象学と二十一世紀の知』所収)は、同様の視角から行われた現象学的研究の一つとして挙げることができるであろうし、現象学という学問領域の外に目を向ければ、たとえば、宇宙人との出会いを手がかりにしてコミュニケーションの成立条件に迫った木村大治『見知らぬものと出会う――ファースト・コンタクトの相互行為論』(東京大学出版会、2018年)のような人類学的研究を見つけることもできる。そして何より、コロナ禍により様々な場面(会議、授業、診療、飲み会など)で「リモート化」が進み、相手の存在感を強く感じられないまま――他者と出会い損ねたまま――意思疎通を図らなければならない機会が増えている今だからこそ、この論点はケアに限定されないより広い文脈で問われるべきものとなっているように思われる。
そこで本シンポジウムでは、提題者として社会学の分野から高橋賢次氏(法政大学)と澤田唯人氏(慶應義塾大学)を、看護学の分野から田中雅美氏(関西医科大学)をお迎えするとともに、コメンテーターとして哲学の分野から吉永和加氏(名古屋市立大学)をお招きし、「他者との出会い、他者の現れ」という観点から、シュッツが主題化した「コミュニケーション以前的な社会関係」について改めて考えてみたい。
 まず、理論社会学がご専門で、「他者の現れ」を暗黙の前提とする社会学的記述の問い直しを模索されてきた高橋賢次氏(法政大学)のご提題では、「人称」と「応答」という観点からこの現れ(なさ)という問題が検討される。次に、感情社会学がご専門で、自傷行為をめぐるインタビュー調査から「傷と他者」との関係性を考察されてきた澤田唯人氏(慶應義塾大学)のご提題では、「痕跡」や「傷痕」として現れる他者との出会いのあり様が、そこでなされる行為と時間性の分析を通じて検討される。そして、現象学的方法を用いながら、重症心身障害児を育てる母親の経験を丹念に記述されてきた田中雅美氏(関西医科大学)のご提題では、親たちや医療者がその「最善の利益」を目指して行う「命の話し合い」の中で出会う存在――「こども」――が問いの中心に置かれる。最後に、西洋哲学、とりわけ近現代フランス思想における他者論の展開を、情感性と責任という二つの視角から検討された吉永和加氏(名古屋市立大学)から、それぞれの提題内容についてコメントを頂戴する。
以上の三つの提題とコメントのあとには、全体討議を通じて「他者との出会い、他者の現れ」というテーマについての理解を深め、今後の課題を明確にしたい。

(企画実施責任者:小田切祐詞・鈴木智之)

各提題趣旨

「「あなた」の立ち現れなさをめぐって:人称的世界の成立とその応答的基盤を問いなおす」
高橋 賢次(法政大学)

 ある存在が「あなた」と呼びうるような何者かとして、「わたし」に対して現れる。「他者が現れる」ということがこのような経験/出来事として浮上するとき、そこではすでに体験世界が人称的に分節化・構造化されている。自他の区別が不分明な状態から、「呼びかけ」や「まなざし」のような触発が契機となって自己と他者とが分節化され、やがて他者が「あなた」や「汝」といった二人称的な存在として現れてくる。「他者の現れ」を可能にするこうした人称的な分節化とそれを支える触発のはたらきは、しかし、わたしたちの経験的な現実において、それほど安定的に作動しているのだろうか。むしろわたしたちは、人称がゆらぎ、触発や応答が辛うじて成立するような世界を生きているのではないだろうか。こうした問題意識から、本報告では、「人称」や「応答」の不確かさに着目することで、「他者の現れ」を経験的に問いなおす視座を提起してみたい。 

「他者という痕跡」
澤田 唯人(慶應義塾大学)

 ――だれかのからだの傷痕に触れる。
そのとき、わたしは「何に」触れているのだろうか。
他者の現れをめぐって、傷痕や痕跡と呼ばれうる事柄は何事か大切なことを物語っているように思われる。社会学ではとりわけ東日本大震災以降、行方不明者の遺品や被災地という巨大な痕跡をめぐり「不在の」他者と共にある時間を生きる人びとの経験(「あいまいな喪失」「死者たちが通う街」など)が論じられてきた。また、現象学ではE. レヴィナスによる議論を端緒とし、他者は「わたし」の世界に絶対的に遡及不可能な痕跡として現れ、したがってそれは「不在」を告げるものとして位置づけられてきた。より単純化すれば、社会学では「『不在の他者』の現れ」が、現象学では「『他者の現れ』としての不在」が、論じられてきたといえる。本報告では両者の議論の交点を探りつつ、傷痕や痕跡として/を通じて訪れる他者との「隔てられた」時間が、いまここにいるわたしと他者とのあいだの〈呼ぶ‐応える〉という身ぶりのなかで何を生きようとさせているのか、いくつかの傷(痕)をめぐる語りから再考してみたい。

 

「人々は命の話し合いの中で誰と出会っているのか」
田中 雅美(関西医科大学)

 「重篤な疾患を持つ新生児の家族と医療スタッフの話し合いのガイドライン」というものがある。これは主に、これから生まれるこどもに「重篤な疾患」があった場合に行われる、生命維持治療の差し控えや中止の是非について話し合うための指針である。話し合いに参加するのは主に医療者や親たちとなるが、話し合いの中心となるのは、「こども」であり、決定の根拠はその子の「最善の利益」とされている。ただし、まだ生まれていない、もしくは生まれて間もない「こども」は「最善」の手がかりとなる物語をほとんどもたない。共有できる物語がなければ、医療者や親たちは、なにが「こども」の「最善の利益」となるのかが推定することができず、話し合いそのものが成り立たなくなるはずだが、そうではない。医療者や親の決定によって、「こども」の生命維持治療が差し控えられたり、中止されたりすることがある。本報告では、親や医療者たちが話し合いの中で出会っているのは誰か、について当事者たちの語りを通して記述していきたい。

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(c) 2022 Japanese Society for Phenomenology and Social Sciences